イタリア北部ボローニャの街の中心部
のいくつかの通りには、運河沿いで
洗濯女と呼ばれた女性達が洗濯物の
濡れた衣類を叩いている姿を
一世紀前までのモノクロ写真の古い
絵はがきに見る事が出来ます。
このボローニャはもう存在しない
と歌う有名なシンガーソングライターの
フランチェスコ グッチーニの
”城外の居酒屋”の歌の歌詞にもある
ように、ボローニャの歴史的中心部で
さえ、その当時のボローニャはほとんど
あるいは全く残っていません。
時の流れの中で現在の道路が過去の水路
を覆ってしまいました。
例えば、リバディレーノ通りを写した
二枚の写真を見比べる事で、その変化の
過程を見る事が出来ます。
しかし、ボローニャの街の地下には
今でも水は流れています。
そして、それはグラダの城壁や昔の
ユダヤ地区に隣接するピエラ通り面した
小窓を通して見つける事が出来ます。
それは、ボローニャ自治体が
ボローニャを訪れる観光客のために
道路で覆わず、残すよう定めた
示唆んに富む場所です。
300年から400年以上前にさかのぼると
ヴェネツィアと非常によく似た、さらに
多くの集落が水面に横たわっているのが
わかります。
それらは染色工によって、色とりどりに
染められた水で駆動する水車場で構成
された大きな集落でした。
マルコポーロが中国から持ち帰った
絹織物をお手本に、最初に生産したのは
ボローニャです。
それは世界最古のボローニャの大学同様
に卓越したものでした。
今日、この街を美食の街として知らしめ
る料理や、芸術品や工芸品よりも優れた
ものでした。
12-16世紀。ボローニャにはもともと
貿易の発展や物資の輸送、そして人口の
水供給に必要な自然の水路が備わって
いませんでした。
これが、人工運河の迷路を構築すること
が決定された理由です。街に隣接する
川の分流のおかげで生まれました。
それだけでなく、北東に伸びる運河を通
って、イタリアで最も長いポー川の河口
に向かって、ヴェネツィア人との活発な
川の交易が発展しました。
このようにして、中世にはほぼ完全に
水路が張り巡らされました。
現在でもボローニャの地下に流れ込んで
いる運河は5つあります。
ボローニャを訪れる観光客のために
ガイド付きツアーで、これらの運河や
街の地下を訪れる事が出来ます。